またまた回顧シリーズ

私にとって、平凡ながらも毎日起こったいろんな出来事がインパクトに残っている高校時代のことを改訂転載。
決して楽しいことばかりではなかったが、いろいろとよく憶えていて、たいていは、いまだからこそ笑い話にできるような、ときにはうしろ指さされそうなことで占められている。


ほとんど毎日気ままに過ごし、ツライとか苦しいとかいうコトをあまり感じなかった大学時代は、それはそれでよかった。
ただ、それを思い出しながらこうして書き綴ったり他人に話したりするには、やはり高校時代のことのほうがハナシとしてはおもしろい。
当時、こうして日記じみたものを書いていたとしたら、もっとディテールにわたった内容になっているはずで、あとになって読んだときにかなり可笑しい内容だっただろうことが惜しい。


私の高校はいちおう、その学区ではそれなりに名の通った進学校だったからか、三年生は勉強以外の行事は最小限に抑えるということで、修学旅行は二年生の夏期休暇の終わりごろの八月下旬に行われていた。
当時はバブル景気を反映していたのか、ハワイだの沖縄だのといったハデめな行先が流行っていたなかで、なぜか近畿地方か仙台方面という、けっこう地味な内容。
どちらに行くのも任意だったということもあり、高校生ならではの短絡的な発想で「仙台なんか行ったって、なんにもねぇだろ」と私は決めつけ、ほとんど反射的に近畿組に希望した。


基本的に全旅程は、バスでの移動を除いては四、五名の小グループで行動し、それぞれで事前に予定したコースを自由に行動するものだった。
ただし制服着用という制約はあったので、それだと精神的に自由になれん!などとわけのわからないことをのたまいながら、われわれは大阪城ホールの物陰で私服に着替え、成人映画の鑑賞・飲酒・喫煙などと、いまにして思えば、なにもそれを修学旅行でやらずとも...と思えるようなことを真剣にやっていた。
おそらく普段とは違う土地で、だれの目を気にすることもなくそうした所業ができるという開放感によるものからだったのだろう。


本拠となる宿は京都市内にあって、そこに帰着すべき時刻だけは決められていた。
夕食は宿で摂るのだが、その後は買い物をする程度であれば、決められた時間帯で外出してよいというような感じだった。
そんなふうに、わりと校則の厳しかったその学校としては比較的ユルい感じで、たいしてギチギチに縛られているというわけでもなかった。


ところがいまとなっては当時の心理がまったくよくわからないのだが、私のグループのだれからともなく「もっと遅い時間帯に宿を抜け出し、夜陰に紛れて京都の街へ繰り出そうじゃないか」 ということになった。
とはいえ、宿の正面玄関が施錠されるまでは、その周辺を教職員が巡回しており、まともに出ようとしてはあっさり捕まるのは目に見えていた。
そしてこういう障害があると、ますますそれを突破してやろうという気持ちになるのが心理というもので、高校生という二度と戻らぬ大事な時期に、ほかにいくらでも考えるべきコトがあるだろうに、こういうコトにだけには思考がとてもスムースになる。
なにか手段はないかと思案を巡らしているうちに、宿の部屋の外廊下の突き当たりに、非常用の避難ドアがあるのを思い出した。


そのドアのところへ行ってみると、内側から施錠するようになっていて、そのサムターンはプラのカバーがビスで固定された状態で覆われており、災害時にそれを押し破って開錠するようになっていた。
さすがにそのカバーを破ってまで外出したら、宿側にばれて学校側にもハナシが行くのは明白で、その末路は坊主にされて停学だから、そんなリスクを背負ってまで行動に出る愚挙もあるまい。


「あのビスをドライバではずしてカギを開けて、あとは元に戻しておけばバレずに出れるぜ」 と提案したのは私だった。
そうはいっても、修学旅行にそんな工具を持ってくるヤツはいない。
「そんじゃ、明日どっかで買ってこようぜ」 と別のヤツが目を輝かせて云ったんだと思う。


そしてわれわれは翌日の外出時、その非常口のある外側にまわりこみ、そこから地上までは避難はしごで降りるようになっているコトを確認。
その日に出掛けた道頓堀で10本入りのドライバセットを買って宿へ戻り、作戦開始のときを待っていた。


ところでこの件に際して、マヌケなディテールをひとつ思い出した。
たかが一、二本のビスをはずすのに、セットものを買わざるを得なかったあたりに、この作戦のツメの甘さがあったことだ。
というのも「ビスをはずそう」という発想はよかったのだが、そのビスがプラス穴だったかマイナス穴だったかを確認しておらず、かつ大きさに関してもまったくノーチェックで、それさえ見ておけば、そのためのドライバを一本だけ買えばよかったのだから、なにも高いカネ払ってセットものを買うこともなかったろうに...


そんなこともあったが、いよいよその日も更け、夜が深まるのを待つ私たち。
抜け出したところで、具体的にどこを目指すか決めていたのかどうかは定かではない。
そして買ってきたドライバセットから、くだんのビスに合うものを使い、まんまとカバーを外して非常口ドアの開錠に成功。
一瞬「このドアを開けると、宿の火災報知器が鳴るのでは?」という心配も脳裏をよぎったが、それは杞憂だった。


かくして、昼間チェックしておいた避難ハシゴをつたって、たしか五階の高さからだったが、われわれはレンジャー部隊さながらに地上に降り立つ。
この脱出劇が、実に教員はおろか、ほかの生徒にも気付かれずに行われたというのを、いまでもけっこう誇らしく思うが、実際はまったく大したコトではない。


こうしてまんまと外に出たのはイイが、結局なにをしたかというと...
宿周辺には遊ぶスポットもないし、そんな時間帯だから店という店もみんな閉まっていて、さらに徒歩だからそうそう遠くまで行く機動力もなく、あげくの果てに、とうていカタギとはとは思えない手合いのおっさんが、路上の軽トラでたこ焼きを売っているのを発見し、そこで1,000円も出して買って帰ったというお粗末さ。
脱出用工具のドライバーの代金を含めると、実に高いたこ焼き代だった。


結局われわれはなにをしに脱出したのかもよくわからぬまま宿に戻るほかなく、またまたさっきのハシゴで五階まで昇り、非常口から中に入ることになる。
たまたまそこを通りかかった、どっかのクラブのホステスと思しきお姉さんが、下の方から「あ!あんなトコ昇ってるよ、ほら!」 などと連れのオトコに大声で教えている声が背中の方から聞こえた。
そして戻るときにも「もしも脱出が発覚して非常口が施錠されていたら入れないぞ、ヤバいな」という考えが一瞬アタマをよぎったが、そんなこともなく無事に帰還に成功したのだった。


いまでもたこ焼きを喰うと、このエピソードを思い出す。