体言止めはダサいです

かつて、もの書きをナリワイとする知人に遠まわしに指摘されて以来気をつけているコトについて、またまた駄文をしたためようと思う。 かくいう自分自身も、それまではそれがイケてると思って多用していたのが、いま読み返すと痛い。 この傾向は、特に女性が書くBlogに多く見られるが、例を挙げるとするとなかなか思い出さないので、勝手に引用させていただくことにする。

大震災に伴う計画停電中止を知ったのは今朝起きてから。
テレビで流される交通情報で、通勤で利用する総武線が終日運休するのを知って、京成線で向かうことに。
でも、早めに京成線に乗って都心に向かった友人から途中の都営新宿線乗り換え駅で入場制限になって進めないとの連絡が入って断念。
会社からも無理せず自宅待機せよとの連絡が。


※そもそも改行位置もなんだかおかしかったので、同じ一文での改行は削除したが、表現そのものは原文ママである。


この文章をなにげなく読み流してしまえば大して違和感を感じないかもしれないが、「体言止めってダサい」と先に云われてから読むと、妙に鼻につくことだろう。
一文目はから「である」。二文目は向かうことに「した」。三文目も断念「した」。四文目は連絡が「あった」。としなければ、そもそも文章がきちんと締まっておらず、何年もBlogとか書いてると、いつのまにか自分がいっぱしのエッセイストでもあるかのような錯覚に陥ってしまい、きっと自分で自分の書く文章に酔っちゃってるようなところがあるのだろう。
こうなってくると、かのAmebaブログの芸能人の書く文章に散見される「〜だよねー」などと書いてあるほうが、どうしょうもなくバカっぽいが、文章がきちんと締まっているという観点ではそうとうマシだというコトになるような気がしてならない。